・概要
伊豆諸島(いずしょとう)は、伊豆半島の南東から太平洋に向かって連なる島々の総称。いずれも東京都に属する。大島から孀婦岩までの間にある100余りの島嶼からなる。ただし人が暮らしているのは、大島のほか利島、新島、式根島、神津島、三宅島、御蔵島、八丈島、青ヶ島であって、八丈小島や鳥島はかつて定住者がいたが現在は無人島である。またベヨネース列岩、須美寿島などは国際法上は島であるが定住しがたく無人島である。
いずれも火山島もしくはカルデラ式海底火山の外輪山が海面より高くなったものである。御蔵島のような古く安定した島もあるが1983年と2000年の三宅島や1986年の大島のように活発な火山活動を繰り返している島もある。2004年現在も三宅島で火山の活動が活発である。伊豆諸島全体が富士箱根伊豆国立公園に含まれる。
・地理
伊豆諸島はフィリピン海プレートの東縁にあり、フィリピン海プレートに太平洋プレートが沈み込む伊豆・小笠原海溝が島々の東方沖を南北に走っている。すなわち伊豆諸島は伊豆・小笠原弧と呼ばれる島弧列島である。
最も北に位置する大島は伊豆半島の最南端である石廊崎よりも北にあり、相模湾の沖合、伊豆半島の東方沖にある島で、伊豆諸島最大の面積を持つ。ここから南西へ利島、新島、式根島、神津島と並んでいる。神津島の東南東40km、大島の南南東60kmほどのところに三宅島がある。三宅島の南20kmほどのところに御蔵島がある。ここまでが伊豆諸島北部とされる。ここで北部と南部が分けられているのは御蔵島と八丈島の間の距離が開いているためだけではない。三宅島と八丈島の間を黒潮が流れていることも考慮されている。黒潮は幅50~100kmで、最大時速は7ノット(約13km/h)にもなる海流である。御蔵島はこの激しい流れのなかにほとんど時期おかれている。
御蔵島の南方100kmほどのところにひょうたん型をした島がある。八丈島である。八丈島以南が伊豆諸島南部とされる。八丈島の南70kmほどのところに青ヶ島がある。青ヶ島が伊豆諸島における有人島の南限でこれより南にあるベヨネース列岩、須美寿島、鳥島、孀婦岩などは無人島である。
・行政
東京都に属し、大島支庁、三宅支庁、八丈支庁が置かれている。日本では町や村は郡に属すことになっているが、伊豆諸島は例外として郡が置かれていない。各支庁の所管は以下の通り。カッコ内はそれぞれの町村に属す主な島。
※大島支庁
大島町(大島)
利島村(利島)
新島村(新島、式根島など)
神津島村(神津島など)
※三宅支庁
三宅村(三宅島など)
御蔵島村(御蔵島など)
※八丈支庁
八丈町(八丈島など)
青ヶ島村(青ヶ島)
このほかベヨネース列岩から孀婦岩までの島嶼を八丈支庁が直接管轄する。これらの島々は日本の行政の最小単位である市町村に属さない数少ない例外である。
より近い静岡県に属さず東京都に属するのは誰でも不思議に思うことであろう。事実後述のようにそもそも駿河国、のちに伊豆国に属しており、いったんは静岡県に属してから東京府に移管されているのである。これは、東京の財政が静岡よりも余裕があったからという説もあるが、航路が東京が江戸といわれていた時代から開けており、人的交流など東京の方が緊密であったのがもっとも大きな理由であると言われている。
・自然
伊豆諸島は生き物の宝庫でもある。健康野菜として注目を集めている明日葉は伊豆諸島が原産地といわれている。イルカやクジラを見ることも出来る。鳥島はアホウドリの繁殖地として知られている。
・歴史
北部に関しては縄文時代から人々が暮らしていた痕跡がある。大島、新島、利島、神津島、御蔵島からは縄文遺跡が発見されている。さらに三宅島では弥生遺跡が発見されており、この時代には定住が始まっていたことが窺われる。
公家や武家、僧侶などが流されることが多かったため、都(みやこ)の文化や風俗が持ち込まれることも多かった。
江戸時代には、幕府の直轄地となり、物産の売買などは江戸に置いた島会所を通じて行われていた。そのため江戸との繋がりは意外と強かった。
古くは伊豆五島とか伊豆八島などと呼ばれていたこともあるようだが、江戸時代の終わりまでには伊豆七島と呼ぶことが定着していた。その後はそれが一般化し伊豆諸島全体を指す言葉としてもしばしば使われていたが、どの島が含まれてどの島が含まれないのかといったことで差別を生むことにつながったために、今日では使わない流れにある。